【日本ダクト工事の歴史-その①-】ダクト工事はこうして始まった

こんにちは。今回から全7回に分けて、ダクトの歴史について振り返ります。日本のダクト工事はどのようにして始まったのでしょうか。早速見ていきましょう!

日本のダクト工事はこうして始まった

日本のダクト技術は、1908(明治41年)の「赤坂離宮(現・迎賓館)」の現場で完全に習得されました。それ以前のダクト技術は、どちらかというと「ブリキ職人」と呼ばれる「板金職人」の世界のものでした。屋根の銅板葺きや鉄板葺きは、いずれも江戸時代から用いられ、これには瓦棒葺き(図1)も用いられましたが、「はぜ(鈎)」の工法はなぜか存在しませんでした。

鉄板屋根の瓦棒葺きに用いる「はぜ」工法は、明治年間に洋風建築が導入されたときに入ってきたもので、江戸時代の銅板屋根の職人が鐵板屋根の職人に転業し、彼らがそのままダクト工事も手がけるようになったと言われています。

日本におけるダクト用の「はぜ」は、「本はぜ」から「三井はぜ(ピッツバーグはぜ)」へ、そして「ボタンパンチはぜ」へと、「はぜ」の形は変化していきます(表1)。

それに伴い使用される工具や機械も変わっていきました(写真1)。

近年では、手工具から電動工具や電動機械へと移行し、さらにコンピュータ内臓の自動化ライン、新しいダクトニーズに基づく「ダクト工事の技術革新」への対応と、めまぐるしい進展を遂げています。しかし、ダクト製作・加工全体から見れば、明治・大正の時代は、ほとんどが手工具による「ダクト技術殖の時代」であったと言えるでしょう。

赤坂離宮(現・迎賓館)の完成

日本のダクト工法は、従来から形鋼製フランジを使用する、いわゆる「アングルフランジ工法」が、明治時代の終わり頃から採用されていました。

赤坂離宮の現場にて、アメリカのダクト製作技術が導入され、それからしばらくの時を経て、大正末期にダクト工事が再開されて今日に及んでいます。赤坂離宮の工事は、すべて直傭制で、請負会社(現在のサブコン)の手を労することなく、造営局の職人が、ダクト職人の親方(職長)を通じて、直接にダクト施工の指導管理を行っていました。

したがって、設備工事の管理・施工も、すべて日本人が担当しています。この体験を通じて、結果的に鉄板ダクトの施工技術に関して多くの熟練工が養成され、日本のダクト工事の基礎をつくることになりました。

日本流ダクト工事へ

「ダクトの加工法」は、大局から見れば、大正時代末期も平成年代の現在も、本質的には大して変わりはないという人もいるでしょう。

しかし、遅々にではありますが、社会環境の変化とともに、ダクト加工の先進国である欧米のダクト製作加工技術を積極的に取り入れていきます。日本はその技術を消化しながら、着実に進歩発展を遂げ、日本固有のダクト技術を開発し発展させていくのです。

いかがだったでしょうか?次回はダクト製作の移り変わりについて著述していきます。是非ご覧ください。